なぜ我々は過去の作品に囚われるのか。

 こんにちは。今日も気まぐれで生きてます。気まぐれで記事を書いて、気まぐれで酸素を手に入れてます。私は偶然で構成されているようです。

 

 最近三島由紀夫さんの小説とか、ドストエフスキーさんの「罪と罰」の訳書を読んだりしていました。すごい有名な作品や著者なので何かくみ取れればいいな、と思いちまちま読んでいましたが、正直よくわからない部分があったり、小説をあまり読み慣れていないせいか物語の順序すら読み取れないことがありました。

 いろいろ読んでいるうちに気づいたのです。なぜ過去の作品をわざわざ読んでいるのか、と。昨今の小説はネットで無料で読めたり、今も活躍する小説家が多数いるので、この中でいい作品を掘り出せばいいのではないか。と考えることもあります。

過去の作品はその時代のトップスタァ

ひとつ理由をあげるとしたら、上記の事物が該当するかと思われます。過去の作品が今まで語り継がれるような作品は、大衆が何かを得ると判断されるようないい話ということです。もちろん、これだけでは過去に囚われる理由ではないと思います。なぜなら今の作品も評価付けが容易になされるからです。ただ、100年、200年と語り継がれる歴史は決して無駄ではないからわざわざ語り継がれるのではないかと考えています。

歴史の一端を学べる

次の理由として、小説を読むだけで歴史を学べる、いわゆる一石二鳥なのです。例えば現代の一般家庭には別の言い回しをされていますが、昔の小説の文中で「女中」という言葉が出てきます。意味は「よその家に雇われて家事の手伝いなどをする女性。現在は「お手伝いさん」という。」(コトバンクより引用)です。こんな感じで昔についての解像度が上がると思われます。昔の解像度が上がると、楽しいですよね。

現代の優秀な作品を探す手がかりになる・・・かも?

昔の作品はとにかく昔の人の嘆きや主張が存分に含まれていたりします。例えば私は「ドラえもん」のコンセプトのひとつとして「いじめられっ子が不思議な道具を使ってなんとかいじめっ子を撃退できないかな」という部分をくみ取りました。似たような作品として「タコピーの原罪」が挙げられます。Youtubeのどこかの動画であれは「ドラえもん」のアンチテーゼだという考察が挙げられていましたが、私もそう思います。どういうことかというと、「タコピーの原罪」もいろんな道具を出すタコみたいな生物が出てくるのですが、結末を見るとそのような道具がなくても仲良くなっていることが分かります(ネタバレしてごめんね)。これはいじめを解決するのは外から来た異物ではなく、二人の会話のようなしょうもないことである。ということを伝えています。このように、「タコピーの原罪」の全容を知るには「ドラえもん」を知る必要があるということです(もちろん、頭空っぽでも見てもおもしろいですが)。なんか論文みたいですね。

 

以上3点を挙げてみました。いかがでしょうか?私はテスト勉強やレポートを捨て置き、ブログを書いてて楽しかったです。皆さんも、こんな現実を捨てて過去に囚われましょう!